髪を整えた、そのあとに。歌麿『娘日時計・巳ノ刻』の身支度

現代の美容室で鏡を使い髪を確かめるイメージ
現代の身支度を表すAI生成イメージ。歌麿の作品や江戸時代の再現ではありません

髪を整え終えたあと、鏡をのぞき、そっと頭に手を添える。そんな何気ない仕草が、江戸時代の浮世絵にも描かれています。喜多川歌麿の『娘日時計・巳ノ刻(むすめひどけい・みのこく)』です。結い上げた髪の形だけでなく、そばにいる髪結いとの関係に目を向けると、この一枚の身支度の場面が少し身近に見えてきます。

午前のひとこまに、髪結いがいる

東京国立博物館に所蔵されるこの作品は、江戸時代・18世紀の大判錦絵。縦37.8センチ、横25.0センチほどの画面に、二人の女性が大きく収まっています。同館は、町家の娘と年長の髪結いを描いたものと説明しています。

題名の「巳ノ刻」は、同館の解説では午前10時頃。『娘日時計』は、町娘の生活を時刻ごとに描いた五枚のシリーズです。ただし、当時は季節によって昼夜の一刻の長さが変わるため、今の時計とぴったり重ねることはできません。ここでは、午前の身支度を切り取った場面として眺めてみましょう。

外出先の華やかな姿ではなく、人に髪を整えてもらっている時間にも、絵になる表情がある。題名を知ると、整った髷の向こうに、一日の流れが感じられます。

髷から手元へ、視線を移してみる

まずは左下の娘に注目します。片手に丸い手鏡を持ち、もう一方の手は頭の後ろへ。画面の端で少し切れた腕をたどると、髪に手を添えていることがわかります。東京国立博物館の解説は、娘が髪結いの話を聞きながら、髪を鏡に映して満足している様子と読み解いています。

右側の髪結いは上半身をかがめ、両手を胸元に寄せています。二人の頭の高さは違いますが、その間に手鏡があることで、互いに近い距離にいることが伝わります。鏡に映った娘の顔は、こちら側には描かれていません。こちらから見えるのは、髪型そのものと、それを確かめている娘の姿です。

二人の髪も見比べてみましょう。結い上げた部分の大きさや位置が異なり、それぞれの頭の輪郭をつくっています。さらに、娘の持つ鏡、頭に添えた手、髪結いの手元へと順に目を移すと、静止した絵にも動きが感じられます。仕上がりを確認している短い間を、歌麿は複数の仕草で見せているようです。

何を話したのか、どんな注文をしたのかまでは、この絵からはわかりません。それでも、髪結いの仕事を受け止める側の仕草が、これほど大きく描かれているのは興味深いところです。髪を結う手順を追うのとは別の楽しみが、この一枚にはあります。

髪の細い線と、肌のやわらかな輪郭

少し拡大して見ると、黒い髪の中にも細い線が幾重に通っています。額の生え際からまとまっていく毛の流れ、ふくらみを持たせた部分、折り返すような曲面。遠くからはひとつの黒い形に見えた髪が、近づくにつれて異なる方向を持つ線の集まりに変わります。

その細密さに比べ、顔は淡く、鼻や頬の輪郭を見つけにくく感じるかもしれません。国立文化財機構の「e国宝」は、このシリーズで、顔や首の輪郭を濃い墨線で囲まず、版の凹凸で表す「無線空摺(むせんからずり)」が使われていると解説しています。線が見えにくいことも、表現の一部なのです。

髪の流れを伝える彫りの細かさと、肌を強い線で区切らない工夫。同じ紙の上で異なる質感を感じさせようとする仕事に気づくと、髪型の名前を知らなくても見る楽しみが増していきます。大きな髷に目を引かれたあと、額との境目や頬へ、ゆっくり視線を戻してみてください。

整えた自分を確かめる、短い時間

この作品を、江戸の女性全員に共通する暮らしの記録として受け取る必要はありません。歌麿が選び、構成した一場面として見るからこそ、二人の距離や手の動きを味わえます。

今の私たちも、身支度を終えると次の予定へ急ぎがちです。ときには髪を整えたあとにほんの少し立ち止まり、横顔や毛先の収まりを確かめてみる。その短い間に、今日の自分の髪で気に入ったところが見つかるかもしれません。歌麿の一枚は、仕上がった髪を受け止める時間まで、静かに残しています。

髪の輪郭を違う表現で眺めたい方には、シルエット肖像の髪と横顔を楽しむ読みものも。

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